自衛隊と銃社会

非武装中立論をぶち上げるといろんなところから叩かれるようで。
TVタックルで「自衛隊に武器を捨てさせて災害救助隊にすべき」と発言していた森永卓郎が現場でもWebでもいろんなところで叩かれてるし。
ただ、自衛隊の話題で出てくる「国と国民を守るために武器が必要」という理屈は、銃社会の話題で出てくる「自分と家族を守るために銃が必要」という理屈と同じ構造であるような気がする。
銃社会の話題で「(個人が)銃を持っちゃいけないよ」っていう理屈が通る国であるのなら、自衛隊の話題で「(国が)武器を持っちゃいけないよ」っていう理屈もそれなりに通って良さそうなのに。
もちろん、上記の抽象化で省いた部分にいろんな違いが含まれていて、人によってはその違いが判断の差異に繋がる重要な部分と見るのかもしれないし、逆に「国が武器を持ってもいいし、個人も銃を持ってもいい」という理屈に繋がる人もいるかもしれない。
でも、個人的にはあくまでも非武装中立論で行きたいなぁ。
だって、「ぶたれたらぶち返す」「ぶち返されるのが嫌だからぶたない」っていうのより「ぶたれたら規則に従って裁く」「ぶたない規則だからぶたない」の方がより頭を使っている考えだと思うし、さらに言えば「ぶたれたら規則に従って裁く」「ぶつと相手が嫌な気持ちになるからぶたない」の方がさらに頭を使っている考えだと思うから。(「ぶたれたら規則に従って裁く」が2番目と3番目の両方に出てくるのは、ぶたれたときの対応としてはその方法がもっとも妥当だと思うから。「ぶたれても相手を許す」というのは精神的な話で文化的に上なのか下なのかはよくわからんし)
その時代の文化レベルによってはトンデモ論に聞こえることでも、時代が進むと当然のものと解釈される理論っていうのがあると思う。
非武装中立論もその理論のひとつではないかな」あるいは「その理論のひとつになるといいな」と考える次第。
わっかるかなぁ。わっかんねぇだろうなぁ。(松鶴家千とせ風)
【参考】
おさんぽ政治学。 基礎編 Lesson4 護憲と改憲
非武装中立運動・非暴力運動・コスタリカに学ぼう運動の実態
どうした非武装中立論
『非武装中立』論の危うさを考える
銃社会